2012年7月6日金曜日

[問題提起]持続可能な社会のためには企業と消費者が負担すべきコストがあるのではないか?

久々の更新となりました。
ECの進化に関するエントリーの続きが残っているのですが、まだ結論が出ていないので閑話休題です。

本日は、豊かな社会を実現するためには、企業も消費者もそれ相応のコストを負担しなければならないのではないか?という疑問提起です。

少し本論とは外れるのですが、数年前、洋裁にハマったことがありました。
たまたま時間があったということもあり、ユザワヤやオカダヤ、渋谷のマルナンなどの手芸店で特売品の布を買いあさり、毎日朝から晩までミシンをかけ続けていた時期でした。
そのときわかったのが、高い服には高いなりの理由があり、ファストファッションに代表される安い服とはまったくジャンルが異なるものだということでした。
もともと私はデザイン性の高い服が好きだということもあり、そもそも売っている型紙では自分が満足するようなデザインの服を作ることはできませんでした。(それ以前に、洋裁の腕のレベルが低いので、高度なテクニックを必要とするデザイン性の高い服は作れませんが)
それでも、自分が欲しいと思う服がなぜ高いのかを理解するには十分でした。
素人目の私にわかった一番大きな違いは、布地の方向です。
ファストファッション系の服は、一枚の布からできるだけ効率的にパーツを取るため、布目がバラバラです。
一方、私が欲しいと思うようなデザイン性の高い(値段も高い)服は、洋服のパーツの方向と布地の方向を合わせて裁断してあります。
決まった幅の布地にパズルのようにパーツを組み合わせるのではなく、布目の方向を合わせるために、裁断したら再利用できないような端切れがたくさん出るパターンでカットしているのです。
そもそも生地自体の品質が良いので、生地を買うだけでも結構な金額になります。私が自分で生地を買って裁断し、縫製することを想像すると、その端切れの多さに、つい「もったいない…」と思ってしまうことが容易に想像されます。
それを考えると、安い服は、できるだけ端切れが出ないよう、効率と流行を追求した結果の工業製品だなあとしみじみ思うのです。
つまり、 効率と流行以外については優先度を落とす、という戦略です。

さて、消費者としてはより安くいいものを、という欲求を持つことは当然であるように思われます。
しかし、よく考えてみると、過剰に安さを求めることが、結果として自分の好きなデザイナーの自由で継続的な活動を不可能にしているのではないかとも思うのです。
景気が悪く、生活者として財布の紐を絞めるのは当然の帰結かもしれませんが、一方で、ファッションという文化とそれをリアルな生活に結びつける産業を大事にするために、消費者自身が投資をするという意識を育てる必要があるのでは?と思います。

ここからが本論です。
文化を育てる、社会正義を貫く、安心・安全を享受できる社会を育てる意味で、企業はそれ相応のコストを負担すべきではないか?
ひいては、そういった企業が存続できるよう、消費者自身が投資という意味で多少の価格上昇を受容すべきなのではないか?というのがこのエントリーにおける問題提起です。
そういったCSRの意識が高い企業だけがコストを負担する形では、結局割を食うだけになってしまいます。
社会の成熟度という意味で消費者が受容する素地を作ると同時に、産業によっては、ある程度仕組みとして企業にコストを負担を義務付ける必要があるのかもしれません。

ちなみに、この持論は原子力政策についても同様です。
公平さ、社会正義、安全の享受という観点から、原子力を排除し、企業にとっても消費者にとってもコスト増となったとしても、他のエネルギーに切り替えるべきというのが私の持論です。